京都新選組同好会史(五)

(一)同好会結成へ
(二)同好会結成の夜
(三)池田屋事変記念パレードの準備
(四)堀川警察署「署長室」での1時間
(五)第1回 池田屋事変記念パレードの日(1)
(六)第1回 池田屋事変記念パレードの日(2)
(七)テレビ番組への出演
(八)時代祭参加への初動(1)
(九)時代祭参加への初動(2)


第1回 池田屋事変記念パレードの日(1)

京都新選組同好会副長 土方歳三こと奈良磐雄


壬生寺境内の近藤勇先生像前で

池田屋へ向けて河原町通を北進

 新選組が時代祭に出ていないのはおかしいとして、局長の横田と副長の私のたった二人で始めた新選組同好会も、その後の奔走で13名の同士を獲得、昭和51年3月13日には正式に京都新選組同好会として発足した。時代祭を主催する平安講社に、いきなり新選組を時代祭に出して欲しいとアピールしても効果は無いだろう。京都と新選組の正当なかかわりと、我々同好会の存在をアピールするため、新選組が京都の地で最も活躍したとされている「池田屋事変」を記念する独自のパレードをやるのがよかろうと、1ヶ月前から準備を進めてきたのだった。

 準備の中でも最も大切な、パレードの許可を警察から貰う手続きは、前回に書いたとおり無事に終えた。続いて我々を悩ませたことは、右翼の街宣車が大音響で新選組の歌や軍歌を流しながら繁華街を走り回っている状況の中で、我々が新選組の衣装でパレードすれば十中八九、右翼団体と間違われる。これだけは避けなければ後が続かなくなる。思案の末、パレードの先走りとして、このパレードが何であるのかを説明した瓦版を群衆に配る瓦版屋を走らせることにした。その任には女性ばかりで組織した番外の十一番隊を当てる事とした。瓦版らしさを出すためざら半紙に印刷された内容は、「110余年前の今日今夜(7月16日)、京都の三条池田屋で新選組が大勢の不逓の浪士を取り締まった池田屋事変がなぜ起こったのか、同好会設立の主旨、そしてこのパレードは新選組を愛する一般市民の集まりで、政治色は一切入れない京都新選組同好会がやっている」という記事で3000枚印刷した。

 昭和51年7月16日、京都新選組同好会にとって一世一代の晴れの日は、朝から蒸し暑い、梅雨明け前のうっとうしい日であった。パレードは午後4時出発だが、午前10時には二条城前の本陣に集合した。正会員13名と、その知人たちで構成する援軍を合わせた総勢36名は、新選組隊士としての着替えを開始した。衣装は浴衣を除き、全て東映撮影所御用達の高津商会からの借り物で、テレビ映画「燃えよ剣」と同じ物で固めた。

 着替えを終えた隊士は、大広間に整列し、局長からの訓示を受けた後、副長が読み上げる「局中法度書」を唱和し、新選組隊士になりきった。食事と休憩の後、いよいよパレード出発の地、壬生寺へ出陣する時がきた。

 二条城正門前に整列した京都新選組同好会の雄姿を始めて見た市民や観光客たちは、一様に驚きの表情を見せ、映画の撮影か何かかと思った人も多かったようである。局長の出発の号令のもと、一番隊から三番隊に分けられたそれぞれの組の組長が、「一番隊前へ」「二番隊前へ」と大声で号令を発し、誠の隊旗を先頭に、高下駄の音も勇ましく出発した。二条城前から壬生寺まで30分余りの予定であったが、慣れない高下駄のせいもあって小1時間かかってしまった。壬生寺に着いた時には、すでに足に豆が出来てしまった者もおり、この後控えている本番の三条小橋西にある池田屋までのパレードが思いやられた。
つづく


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