京都新選組同好会史(三)

(一)同好会結成へ
(二)同好会結成の夜
(三)池田屋事変記念パレードの準備
(四)堀川警察署「署長室」での1時間
(五)第1回 池田屋事変記念パレードの日(1)
(六)第1回 池田屋事変記念パレードの日(2)
(七)テレビ番組への出演
(八)時代祭参加への初動(1)
(九)時代祭参加への初動(2)


池田屋事変記念パレードへの準備

京都新選組同好会副長 土方歳三こと奈良磐雄




 昭和51年3月13日結成当日の状況は(二)で詳しく記したが、宴会後の行動も特筆に値するので付け足したい。

 二条城前の大名屋敷跡、かがり火、燭台、血判、芸者衆で雰囲気は最高調に達した結成式。新しい同志たちは112年前にタイムスリップした気分で、大いに飲み、大いに歌った。宴もたけなわの頃、局長が「これから二条城の警備に出発する。」と大きな声で号令をかけた。皆は酔っていて足元がふらつくにもかかわらず高下駄をはき、誠の隊旗を先頭に二条城の外周を2周も巡邏した。途中、警官の職務質問にもあったが、「新選組です。ご苦労様です。」というと、敬礼を返し「ご苦労様、気を付けて。」と通してくれた。巡邏も終わるころ、血気にはやる者がチャンバラごっこを始め、相当激しくやったのかジュラルミンの模擬刀は曲がったり折れたりするものもあり、鞘に戻らなくなったものはお堀に投げ捨てられた。本来なら局中法度の「士道に背き間敷きこと」「私の闘争を許さず」に抵触し、即刻切腹なのだが、目出度い結成の当日でもあるので大目に見た。

 京都新選組同好会の「新選組を時代祭に出す」という目的は、そうやすやすと叶うものではないと分かっていたので、まずは京都新選組同好会に市民権を獲得するための行動を取ることにした。会津には「白虎隊祭」、赤穂には「赤穂浪士の義士祭」があるように、京都で「新選組祭」をやろうということに話が進んだ。新選組をここまで有名にした活動は、何と言っても「池田屋事変」がある。これは元治元年(1864年)6月5日(旧歴)祇園祭宵山の夜、三条小橋の池田屋に討幕派浪士が集まり、6月20日前後の風の強い日を選び京の町に日をつけ、その混乱の中で天皇を奪い一挙に討幕戦を起こすとの情報を、薬屋に化けて探索を続けていた山崎蒸より得た新選組が、京都守護職(松平容保)の先陣として出動した事件である。この事件は当時の警察としての治安行動であったと、「京都府警察史第一巻」に詳しく記述されている。この由緒正しい行動を我々同好会で毎年再現し、新選組が単なる人斬り集団でなかったことを多くの人々に知ってもらうことにより市民権を獲得していくことにした。

 「京都新選組同好会池田屋事変記念パレード」の内容は、史実に合わせた現在の祇園祭の宵山である7月16日の夕刻、ダンダラ羽織り、鉢金、胴、袴、高下駄に大小刀を差した完全出動姿の隊士30数名が、誠の隊旗を先頭に隊列を組み、近くに本陣のあった壬生寺を出発。四条通を祇園祭のコンコン、チキチンのお囃しの鳴る中、三条小橋池田屋跡までパレードをする。このパレードがチンドン屋でないことを知らせるため、同好会の主旨を印刷した瓦版を配付する先走りをつけ徹底するるといったものである。
 パレードをするには警察の許可が必要ということで、出発地点の壬生寺を管内に持つ堀川警察署へ届けを出しに行かねばならないことになった。

 パレード実施の10日前に、局長と副長の私は警察の交通係りを尋ねた。「新選組同好会の者ですがパレードの申請に来ました」と窓口に言うと、周辺の警官が一斉にこちらをジロリと見た。てっきり右翼か何かと間違えられたのだ。窓口の警官は、申請を受け付けていいものかどうか判断に迷ったらしく、上司の席まで行き何やら相談していたが、すぐに戻ってきて「申請書類に必要事項を記入してください」とカーボン紙と書類を2枚渡した。記入を終え提出すると「3日後に来てください」と言われた。お役所仕事だなと思いながらも仕方がないのでその場を去った。3日後の指定の時間に、再び局長と私が窓口を訪ねると「こちらへどうぞ」と階段を上がり、2階の奥まった部屋まで案内された。部屋の表札には「署長室」と記されていた。
つづく


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