京都新選組同好会史(二)

(一)同好会結成へ
(二)同好会結成の夜
(三)池田屋事変記念パレードの準備
(四)堀川警察署「署長室」での1時間
(五)第1回 池田屋事変記念パレードの日(1)
(六)第1回 池田屋事変記念パレードの日(2)
(七)テレビ番組への出演
(八)時代祭参加への初動(1)
(九)時代祭参加への初動(2)


同好会結成の夜

京都新選組同好会副長 土方歳三こと奈良磐雄

局長の横田俊宏
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 「京都三大祭りの一つである時代祭に新選組が出ていないのはおかしい」「新選組同好会を結成し、時代祭に出られるよう時代祭の元請けの平安講社へ圧力を掛けよう」と、私に新選組同好会の結成を呼びかけた横田俊宏(局長:近藤勇)は、当時ファッションビルBALの営業部長で、兵庫県は赤穂市出身。大阪商業大学在学中は日本拳法部に所属、四回生の時は主将を務め、拳法界では”泣く子も黙る蹴りの横田”と恐れられていたそうである。闘う男の世界を突き進んできた横田がなぜファッションビルの営業部長だったのかはこの際謎としておく。

 一過性の遊びなら誰に断わる必要もないが、かなり本気でやるつもりだったので、髪結いの姉さん女房に「新選組同好会を結成し、時代祭に新選組を出すように働き掛ける…。いろいろ準備もいるがよろしく頼む」と言うと、ニッコリ笑って「楽しそう、着物はおばあちゃんに相談して作るわ」と、はしゃいだそぶりで、まさに理想の女房を演じてくれた。

 横田と私の二人新選組は、これはと思える仕事関係の知人や友人、そして私の教え子に新選組の話をし、同好会の結成の主旨を説いた。「新選組についてどう思う…?」と、切り出し方は局長が私にしたのと同じ言い方。「えっ、…」「なに、…」と一様に驚いた表情をするが、内容を説明すると面白がってすぐ話しに乗ってくる。目標は局長の横田、副長の奈良を入れて13名。期限は3月初旬。なぜそうなのかは、新選組が文久3年3月13日に13名で旗揚げをしたからである。可能な限り史実に添った再現をと二人で決めていた。新選組に惚れ、同好会の主旨に賛同し、隊士になるという男は多く、残る11名はすぐに集まった。繊維関係の新聞記者、ディスプレーデザイナー、下駄屋の主人、広告代理店の営業マン、飲み屋の主人、電話会社の技師、保育園の保父、学生などなど。

 新選組同好会結成の夜を迎える準備が始まった。場所は、時間は、衣裳は、式典内容は…。

 昭和51年3月13日結成当日。場所は二条城の真向かいにあった二条観光ホテルの奥座敷。現在はホテル日航となっているが、当時は藩邸跡を彷彿とする広い敷地で、庭には深い木立に囲まれた池もあり、玄関横の大楠は樹齢300年をゆうに越え、二条城での出来事をすべて見ていたと言える。夕刻から開始し、庭にはかがり火を焚かせた。衣裳は当然、羽織、袴で、大小刀を帯びた侍姿。時代劇映画の衣裳や大道具、小道具を取り扱っている高津商会という貸し物屋で一式を調達した。もちろん誠の隊旗もである。

 締め切った障子を通して、庭のかがり火がはぜる音が聞こえる静寂のなか、燭台の和蝋燭の薄灯の中で、副長の私が和紙に墨書きした、新選組局中法度書を読み上げた。続いて、隊士一人一人が氏名、出生地を和紙の巻物に署名し、押印に変え、局長の用意した小刀を用いて血判を押した。新選組についての基礎知識を得るために、局長からは「新選組始末記」(子母澤寛 著)が一人一人に手渡された。かくして京都新選組同好会の結成式は厳粛に終えた。その後は花街から呼んであった舞子3名と芸姐さんたちを交えてのお大名宴会へ突入した。
つづく


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