京都新選組同好会史(八)

(一)同好会結成へ
(二)同好会結成の夜
(三)池田屋事変記念パレードの準備
(四)堀川警察署「署長室」での1時間
(五)第1回 池田屋事変記念パレードの日(1)
(六)第1回 池田屋事変記念パレードの日(2)
(七)テレビ番組への出演
(八)時代祭参加への初動(1)
(九)時代祭参加への初動(2)


時代祭参加への初動(1)

京都新選組同好会副長 土方歳三こと奈良磐雄
平安神宮

 時代祭に新選組を登場させるべきだとの考えで、京都新選組同好会を結成したのは昭和51年3月13日。その年から「新選組ここに在り」と始めた池田屋事変記念パレード(7月16日、池田屋事変勃発の日にちなんで)。多くのマスコミから面白いと取り上げられ、いよいよ日の目を見始めた我々の次の動きは…、ということで、3回目のパレードを終えた昭和54年8月から、時代祭の執行母体である平安講社との交渉を開始することになった。

 時代祭は平安建都400年を記念して明治28年に創設され、毎年10月22日に執り行われる祭で、京都の三大祭の一つである。行列の内容は、錦の御旗をなびかせた維新勤王隊列を先頭に、幕末志士列、江戸時代徳川城使上洛列、…延暦武官参朝列…と続くが、蛤御門の変で御所の警備について長州兵と戦った新選組の姿は見られない。

 総勢2,500人にも及ぶ大時代絵巻に新選組はなぜ加わっていないのだろう。素朴な疑問から新選組研究を始めた我々の見方は、この行列の内容を決めた主催者は、わずか30年程前まで敵味方に分かれて戦っていた敵を、自分達のお祭り行列に参加させる程の度量は持ち合わせていなかったのだろうということである。


 昭和の時代の平安講社の役員方は新選組に関してどのような考えを持っておられるのか、平安神宮宮司は三條實春氏だというぐらいの知識しかなく、隊士の中にも関係者を知っている者は誰もおらず、皆目見当がつかなかった。平安講社にどのような接触の仕方をすれば、我々のような私的集団の話しを聞いてもらえるのか、いろいろ検討した結果、最初は常識通りに書面で面会の申込をしてみることから始めた。面会申込の文書のほか、京都新選組同好会設立趣意書、池田屋事変記念パレードの写真、活動を紹介した新聞記事のコピーも添えた。

   以外にも、断わられる可能性の方が大きいと踏んでいた我々に、面会許可の返事が届いたのは一週間も経たないうちだった。返事には、昭和54年10月25日午後2時、平安神宮社務所にてお待ちしますとの、いたって事務的な文面であったが、我々は時代祭への参加に一歩近づいたという喜びを隠せなかった。急遽、面会当日の段取りについての打ち合わせ会議を召集したのは言うまでもない。

 10月25日の午後1時50分。タクシー3台に分乗した京都新選組同好会幹部8名は平安神宮正面に到着した。当然のことながら新選組の正装である、誠の印の入った鉢金を頭に巻き、ダンダラ羽織、袴、高下駄、腰に大小を帯刀した姿で、誠の隊旗を先頭に平安神宮正門前に整列した我々は、パレードの時以上に緊張していた。この姿は、事前に連絡をしておいた読売テレビのカメラがしっかりととらえて離さなかった。


つづく


京都新選組同好会史(九)へ